一億総コドモ社会はなぜ生まれたのか

オタクはすでに死んでいる 岡田斗司夫 読みました
『「イベント主催という道もあるでしょうが、わたしは追っかけを選びたい。これは私の意志です」というのならば理解できるのです。しかし、彼には自分でイベントを主催するという発想がなかった。「えっ、今のオタクはこれができないのか」と。これが最初に覚えた違和感だったのです』
『私の思うオタクは「何かを『好き』という気持ちを抑えきれずに人に伝えてしまう人」でしたが、彼らにとっては「自分が楽しいのが大事」であるようでした』
『悩みなきが故にせっかくの高度オタク文化を与えられても熱くなれない。第一世代のような「人生を捨てて趣味人として生きる」ような覚悟もないし、第二世代のような「熱くアイデンティティーを語る」本気さも持っていない。生まれながらの「オタク文化の消費者=金をむしられるだけの存在」であることこそ、オタク第三世代の問題なのかもしれません。』
『こうして自分たちが一生懸命作っているマンガ、それも小説とか映画とかを超えて、マンガは世界最先端の娯楽のはずでした。ところが、雑誌の売り上げを左右するのはマンガの品質ではなかった。 十五、六歳の水着の女の子がグラビアに出るか出ないかで売り上げが変わってしまう。それが、私たちが住んでいる国なのです。』
『もともと、「好き」の対象が「美少女戦士セーラームーン」だとして、それは世間から変わり者扱いされることは必至でした。それによって過去の「おたく」たちが冷や飯を食ったことは、わかっています。しかし「萌え」ということで、「変わり者だと思われることもわかっていますよ。そんなこともわかっていて、なおかつ好きなんですよ。いや、その変わり者であることも含めて好きなんですよ」という気持ちも含んでしまっている。だから、「萌え」という概念は、たちまち普及したわけです。そして、こうした屈折した感覚を表現するのにとりあえず便利だから、これ、共通語として使おうよと暫定的に採用した言葉、それが「萌え」だったのです。』
『私が定義したオタクというのは、子供っぽい趣味を選び、それに関して、精神力と知性でもって世間の目に対抗していく存在だということです』
『日本では子供に「お小遣い=趣味の自己決定権」を与える。同時に日本では、大人向けの「思想や表現の過激性」を備えた子供文化が増えた。この二つの条件がそろって、はじめてオタクは発生したのです。』