絞首刑判決から60年

東京裁判の教訓 保坂正康 読みました
『東條は、九ヶ国条約について、もとよりある程度条文も知っているのだろうが。肝心のこと(この条約はどのような意味を持っているか)については深い知識をもっていないことが暴かれている。昭和十年代の陸軍大臣というポストは、畑や東條の証言を見てもその能力はほとんど軍内での評価にすぎず、大臣という行政職にふさわしいとは思えないのだ』
『この自決失敗はきわめて評判が悪く、自らの名で昭和十六年一月に示達した「戦陣訓」の教え(「生きて虜囚の辱めを受けず」など)に反するのではないかとも批判された。日本国内でも冷笑する記事があふれ、東條のこの行為は軍事指導者のきわめて無責任な行為とも受け止められたのであった』
『この検察局の文書や記録の収集が一部とどこおった原因は、日本側の政治、軍事指導者の責任逃れの姿勢にもあった。自分たちが裁かれるのを防ごうと、その政策決定の重要資料をすべて焼却するというのは、その時代の国民に対して責任を負うつもりがないということと、歴史上の判断を仰ぐ意志もないことを示している。こうした姿勢は次代の国民に対する裏切りとして、私たちは記憶しておかなければならない。太平洋戦争下の戦時指導者に共通してみられるこういう姿勢を許さなかったという一点だけでも、東京裁判は相応の意味があったといえるだろう。』
『法廷での日本軍による残虐行為そのものは、日本社会ではまったく知らされていなかったために驚きの声が上がり続けた』
『弁護人の反対尋問そのもののなかに日本側の矛盾が凝縮していることもわかる。つまり日本がハルノートを受けとってからの偽装外交、戦争決意のプロセスがアメリカ側の思惑どおりであったにしても、アメリカはそのことをなんらの書類や文書にのこしていないのだ。つまりそういう可能性は、指導者たちの心のなかにあり、日本だけが直線的に進んでいく体質を浮かびあがらせてしまうことになった。』
『東條はキーナンのこの心配に溢れた尋問(天皇免責を覆さないという前提の質問)を理解出来ずに、天皇に戦争責任があるかの答弁をしてキーナンをあわてさせている』
天皇に戦争を始める時の政治責任はないと強調していたが、それはキーナンと東條の弁護人との間で、決してその責任を認めるような弁を行わないことが約束されてもいた。弁護人たちは東條にそのことを言い、東條もまた自分はそのためにこの裁判に臨んでいるということで意見は一致していた。しかしそこに至るまでに、天皇の意に背いて自分が戦争を始めたと言って欲しいと弁護人からもちかけられた東條は、自分は陛下に抗したこはないと一時は譲らなかったという裏話もあった。』
『加えてこの日から食事のメニューも豪華になり、被告たちの体調にも神経質に気を配られることになった。「死」そのものを法廷での決定により行うのであり、自らが自らの死をコントロールすることな許さないとの意味を含んでいた。とくに東條への監視は厳しく二十四時間の監視体制が布かれていった』