技術の進歩によって、サイボーグ化するこの時代へ

自分の顔が許せない! 中村うさぎ 石井政之 読みました
「傍から見ると恵まれている、あるいは、可もなく不可もなくというような人が持つコンプレックスを、「そんなの恵まれているやつのぜいたく病だよ」と切り捨てることは簡単かもしれない。でも、恵まれている中の小さな差異に悩んでいるからといって、その地獄が浅いとは限らないと思う。』
『初対面でアザのことでガタガタ騒ぐような人が世の中にあふれているわけじゃないと。中学生、高校生というのは、逸脱した肉体を持った人に対するあからさまな軽蔑心とかがバーッと出てきます。学校生活のほうが異常だった。社会に出れば、そんな人ばかりではない、これくらいの顔は許容される、ということが実際に分かったんです。でも、それも誰かが教えてくれたわけじゃなくて、自分で一つずつ恐る恐る確かめていった。』
『もしも、僕が若いとき、20歳とか子どもの時、そういう完治する技術があったのならば、間違いなく受けていたと思う。でも今、この年になって、この顔で生きてきていろんなおもしろいことを経験してきたし、智恵も身についたので、ためらいがあるのは事実ですよね。まさに顔で飯を食ってきたということは否定しない』
『五体は満足だけど見た目が人と違うので正常だと思われない。正常な人からみるとね。障害者から見ると「おまえら、五体満足だろう。障害者じゃないだろう」となる。』
『「差別がいけない」というのはわかるけど、「差別的表現」に過敏になりすぎて、結局は、両者の世界を遮断してしまう結果になっているんですよね、現況は。あまりにもリスキーすぎて、もうわたしたちからは、逸脱者の肉体を語れない。語る言葉もないし。だからこそ、逸脱者のほうから「言葉」を語ってほしいとは思うわけです。逸脱者本人が語る分には「差別」と言われないからね』
『「おれはこれだけ露出している。でも。おれは大丈夫。生き残っている。だから。安心していいよ」というメッセージを伝えないと、次の表現者が現れてこないんですよ』