人生の成功は世襲できるのか?

新日本のお金持ち研究 橘木俊詔 森剛志 読みました
『オーナー経営者として成功するには、必ずしも一流大学を卒業する必要はない。ひたむきにビジネスに取り組むことがもっとも大切であり、学歴などは二の次という意見が多かった。しかし、ここで興味のあることは、自分の学歴は一流でなくても成功したが、自分の子どもには良い教育を受けさせたいとする気持ちを述べる人が多かった。ここに人間の複雑な心理状況を垣間見ることができる。すなわち次のような解釈ができる。自分で事業を起こして、がむしゃらに頑張って事業を発展させてきて、高い所得を稼ぐことになった。ちなみに起業成功者の半分を少し上回る人が大学卒であるが、必ずしも名門大学の卒業者は多くない。さらに残り半分は大学を出ていない。この成功者は自分の子どもにはできるだけ良い大学に行かせたいと希望しているのであるが、これは自分の学歴に対していくぶんかのコンプレックスがあったために、自分の子どもにはそのようなみじめな感情を抱かせたくない、という親の素直な愛情あふれた気持ちの発露とみなせるのではないだろうか。』
『日本の国債に対する忌嫌感は強く、内閣府「証券投資に関する世論調査」では「国債投資を行いたい人」はわずか5.8%にすぎない。これは戦前の国債が戦後紙切れ同然になったことが大きく影響しているとしている。』
『なぜこのような所有と経営の分離が財閥企業でみられたかと言えば、所有と経営が別の能力を必要とする、ということがある。特に企業経営においては、組織の管理、技術の向上、販売の促進、経営上の諸判断、など高度な能力を必要とするのである、帝大出の優秀な人に担当してもらうのがよいと、株主である財閥家は判断したのである』
『戦前の上流階級を一言で要約するなら、財閥や大実業家といった大富豪を中心にした経済的な成功者がまず代表であった。大土地所有者も経済的には裕福であったが、日本を動かしたという点から評価すれば、権力に近い場所にはいなかった。むしろ華族、政治家、高級官僚といった人々のほうが、上流階級、ないし支配階級であった。上流階級の三つの条件のうち権力と富の両方を持った人が戦前の上流階級であったといえる。』
『戦前の上流階級は、「富」に加えて身分も華族であったことが多いし、「権力」と「威信」のどちらかも保持していたので、確実な意味で上流階級とみなすことが可能であったが、現代では「富」しか保有していないので、上流階級は定義できないと解釈してよい。もとより、現代でも「権力」を持った首相や政治家、あるいは「威信」のある最高裁長官などは存在するが、その人々は「富」の欠けることが多いので、二つ以上の基準を同時に保有する人の数は少なく、これらの人も上流階級とは言いがたい。一人だけ目立つ例外がいる。それは麻生太郎・前首相である。裕福な企業経営者の一族に育ったので「富」はある。もとより首相なので「権力」と「威信」もあるので、数少ない例外的な現代の上流階級とみなしてよい』
『なぜこれら「擬似富裕層」が、外国車の購入、貴金属、高級ブランド商品といった豪華な消費行動に走るかといえば、それを他人に見せびらかすことによって、自分がお金持ちであることを知ってもらいたい欲望が強いのではないだろうか。顕示欲消費という言葉を用いて説明できるのである。一方、「真の富裕層」は自分がすでにお金持ちであることを認識しているので、あえて派手な消費をしてまで自分の富裕ぶりを顕示する必要はなく、目立たぬところでお金持ちなりの生活をしているのである。』
ゲーテッド・タウンの進行を阻止するもっとも有効な方法は、犯罪の数を少なくすることである』