大名も命がけなんデス

勝ち組が消した開国の真実 鈴木荘一 読みました
島津久光の駕籠の傍へ乗馬で近寄ってくる正体不明の外国人が、商人であろうと女性であろうと、世にピストルという飛び道具が登場した以上、島津家供侍としては、主君久光が射殺され島津家が家名断絶・領地没収といった憂き目を見ぬよう、身命を賭すのが「武士の道」である。こう考えると、生麦事件は島津家警備役の「正当警備行為」と見ざるを得ない。』
『裏で南軍を支援していたイギリスとしても、南北戦争の争点が「奴隷解放問題」となれば、表立って南軍を支援することは憚られた。リンカーン大統領は、イギリスが南部連合を支持して参戦し北軍が「南軍+イギリス」と戦う事態を回避しようと必死だった』
『歴史書はクチを揃えて「この薩英戦争により、薩摩藩は攘夷が不可能なことを悟り、以後は開国論に転じた」といあいている、これはトンでもない間違いだ。そもそも薩摩藩は最初から最後まで、一貫して開国派なのである』
『あきれはてたることは、長州で戦いたる船(外国軍艦)を江戸で修復いたし、また長州で戦い申し候。これ皆、姦吏(幕府役人)の夷人と内通いたし候ものにて候。右申すところの姦吏を一事にいくさ致し、打ち殺したい』by坂本龍馬
オールコック公使とクーパー提督は、高杉晋作の主張を受け入れ、賠償金三百万ドルを幕府に請求することとした。その理由は「長州藩の外国船砲撃は幕府の命令によって行われたから幕府に監督責任がある」というのである。こうした高杉晋作の機略により、長州藩攘夷急進派は、自らの戦争責任を、皇室と幕府に責任転嫁することに成功した。』
長州藩の不始末により幕府がイギリスに対し長州藩の代わりに下関戦争賠償金第一回分五十万ドルを支払った慶応元年七月いう同じ時期に、グラバーから長州藩に対し百万ドルの信用供与の話が出たとなると「イギリスは幕府から召し上げた五十万ドルをグラバーを通じて長州藩に信用融資したのか?」』
薩摩藩名義で長州藩の武器購入契約が結ばれ、薩摩藩の船で長州藩への武器搬入が可能になった』