見えない30万人の知られざる現実とは?

移民還流 南米から帰って来る日系人たち 読みました
『でも、現実には、もって帰れる金額はたいしたものではないし、昔の仕事にも戻れない。というか、昔の仕事をするのは、ばからしく感じるのではないでしょうか。多くの人たちが日本とこちらを行ったり着たりの生活になりました。デカセギを活かして、こちらでの仕事を大きくした人は数えるほどです。戻ってくるのは、意志の強い人か、きちんと貯金が出来た人だけです。』
『中国人の子供たちは熱心に勉強しますよ。日本語の成績が日系人の子供よりもいい子もいます。中国人の親は熱心で、日本語だけでなく英語も、中国語も熱心に学ばせています。語学は財産だという感覚があるのではないかと思います』
『普通は皆、周囲の人間は自分と同じ感覚をもっていると感じて生活しています。でも、異文化間で生活する子供たちは常に自分が感じていることを周囲に合わせて修正しないといけない。それは大変なストレスです。しばしば子供たちは、何が正しいことか、判断が出来なくなり、自尊心が低下して、主体的に生きることが難しくなります』
『ブラジルでは、日系人家庭は、殆どの子どもたちが最低限、高校には進学するとナカガワは言う。だが、デカセギを通過した子どもたちは、より低い学歴しか得られない。日本に残る子どもたちもまた、日本で高校を卒業することは簡単ではない。さらに進学しないで親と同じ、工場労働に就いたとして、未来は厳しい』
『デカセギから帰って来た人を社会は迎えてはくれない。ブラジルでは人脈で仕事を探すことが多いのですが、帰国後どうやって仕事を探せばいいかわからないのです』
『1人で多様な仕事をこなせる人材が求められるのです。でも、日本で10年以上もロボットのような仕事を続けてきた人は、たとえブラジルで高学歴だったとしても、創造性や多様性がなくなってしまっている。リーダーシップも取れません』
『ブラジルは1888年に奴隷の輸入を禁止。大農園主たちは自らのコーヒー農園に、イタリアから多くの移民を入れた。しかし、奴隷代わりの労働条件は劣悪で、さらに1902年、コーヒー不況により賃金の遅配・不払いが続いたため、イタリア政府はブラジルへの移民を禁じた。そこに受け入れられたのが、移住先を失っていた日系移民だった。移民希望者たちは家族単位で、日本政府の補助金を受け、半官の移民会社を通じてブラジルに渡った。奥地のコーヒー園などで契約雇用労働者として家族で農奴代わりの仕事に耐えたという。やがて、生活を切り詰めて金を貯め土地を買い、自営農として独立した』
『当時、日系人社会では、ブラジル生まれの二世は「ブラジル化して駄目になった日本人」という認識だったという』
『いつかは日本に帰ることが前提だった日本人が、ブラジルで生活をしていく決意をしたのは、日本の敗戦が大きなきっかけだった』
『父はブラジル人を三等国人だ、日本は一等国人だ、と言っていましたね』
『当時、日本政府は在日韓国人三世に対して、明確な法的地位を与える必要に迫られており、それと整合性を保つために海外に在住する日系人の法的地位を明確化する必要があったというのだ』